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胸アツだったNBAジャパンゲームス2019

ジャパンゲームス以前のジャパンゲームス

日本にあふれる「濃いNBAファン層」の背景

 

2003年以降16年間、数世代にわたるNBAファンが、生のNBAアクションを見る機会から遠ざかることになりました。相当数のファンが定期的にアメリカ現地に足を運んでいたのは事実ですが、すべての人がいけるほどたやすいことではありません。

ただ、その数世代のファンの熱心さは、これもまた相当なものでした。高年齢層のファンは、マイケル・ジョーダンとほぼ同世代かそれ以上。1992年のドリームチームやファブ・ファイブなどよく知っています。マジック・ジョンソンとラリーバードの様子から友情を感じとり、ジョーダンが父との悲しい別れから立ち直ってシカゴ・ブルズの第二期黄金期を築く姿を見てきた世代です。

このグループのファンは、最初のNBAジャパンゲームス以前に日本で行われた生のNBAイベントに関する記憶も豊富です。例えば私自身のことを言えば、初めて生のNBAを体験したのは1975年で、まだ小学生の頃でした。NBAABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーションの略、1976年にNBAが吸収合併)のスタープレイヤーを招待して行われたエキジビション・シリーズの1試合を、代々木第二体育館に見に行ったのです。試合後、プレイヤーたちがロッカールームから出てきてファンと接してくれて、私はプログラムにカーティス・ペリーやダン・イセルのサインをもらうことができました。

中学生時代、私が憧れたバッシュはオニツカタイガーのファブレ。パープルのボディーにゴールドのオニツカラインのモデルが欲しかったのですが、それは日本で当時開催されたNBAのエキジビション・シリーズで、デイブ・コーウェンズが履いていたからです。

1982年には、代々木第一体育館がNBAオールスターのエキジビションで盛り上がりました。この時はカリーム・アブドゥル=ジャバー、ネイト・アーチボールド、モーゼス・マローン他の豪華な顔ぶれが来日。アブドゥル=ジャバーのスカイフックは誰もが知っており、それを生で見られることに大喜びしたのを覚えています。

 

そのような機会は他にもたくさんありました。加えて、1970~90年代にはカレッジの強豪を招待しての試合も、活発に日本で開催されていたのです。ディヴィッド・トンプソンを擁するノースキャロライナ州大が、代々木第二体育館で日本代表を一蹴したことを覚えているファンは多いでしょう。NCAAのシーズン公式戦で、アキーム・オラジュワンとクライド・ドレクスラーのヒューストン大を、ラルフ・サンプソンのバージニア大が東京で迎え撃つという一戦を見に行った人もいるはずです。殿堂入りしたゲイリー・ペイトンは、1990年にソニックスからドラフト指名を受ける前に、東京で行われたジャパンクラシックというカレッジオールスターのエキジビションで、トラッシュトークを披露しました。このイベントは、それまでハワイで行われていた毎年の恒例行事を、舞台を日本に移して開催したものでした。

 

何が言いたいかというと、この世代が若かった頃にも、NBAを好きになる理由が今とちがう形で、実はすぐそばにあったのです。だからNBAについてなら一日中語り続けられたし、年がら年中それができるほどアツくなりました(今でもそうです)。

その後NBAジャパンゲームスが定期的に開催されるようになると、この世代以降のバスケットボールファンはNBAの価値をさらに理解し、愛し続けました。エア・ジョーダンの伝説にはまり、衛星放送でNBAの試合を見てお気に入りのプレイヤーを見つけ、忘れじの名プレイヤーや名場面について知識を深めていったのです。

初めて海外で開催されたNBA公式戦

NBAジャパンゲームスが実現

 

1990年秋、ユタ・ジャズとフェニックス・サンズによる初のNBAジャパンゲームスが東京体育館で開催され、チケットは2試合とも完売となりました。来日メンバーには、1992年のドリームチームに名を連ねたジョン・ストックトンとカール・マローン、のちに2008年から2期にわたってサクラメント市長を務めたケビン・ジョンソンらがいました。

私は幸運にも会場でみることができ、レギュラーシーズン開幕シリーズの電撃的な雰囲気に打たれました。それまでに経験したことのなかったあの感覚。非常に訓練されたバスケットボール・プレイヤーたちによる、見たこともないエンターテインメントが残したレガシーは、この国にいる長年のNBAファンの心に、色褪せることなく今も生きています。