NBA初代スティール王、ラリー・スティールが語る

ケンタッキー大の伝統と

NBAの今・昔

2018年10月半ば、NBAポートランド・トレイルブレイザーズのレジェンド、ラリー・スティール氏が来日し、都内でバスケットボールクリニックを開催しました。ここでは、その際に独占取材したインタビュー内容を紹介します。

Interview by Takeshi Shibata/O-Media


柔和な笑顔でインタビューに応じたスティール氏。その言葉からはバスケットボールへの愛情があふれていました。
柔和な笑顔でインタビューに応じたスティール氏。その言葉からはバスケットボールへの愛情があふれていました。

ラリー・スティール

Larry Steele

1949年5月5日生まれ(インディアナ州出身)。69歳。

ケンタッキー大でキャプテンとして活躍した後、1971年のNBAドラフト3巡目2位でポートランド・トレイルブレイザーズから指名され入団。1976-77シーズンに、ブレイザーズ史上唯一のチャンピオンシップ獲得に貢献。1973-74シーズンには、NBAが新たにスタッツ項目に導入したスティール部門で、初代のリーグリーダーになった。以降1979-80シーズンまで640試合に出場し、平均8.2得点、フィールドゴール成功率48.4%、1.8スティールの記録を残した。

今回は、Dreams Come True Projectが主催するチャリティ・バスケットボール教室に招かれ来日。都内の強豪校として知られる世田谷区立梅丘中学校をはじめ、養護施設で暮らす子どもを含む日本の若いプレイヤーたちに、最高峰NBAの舞台で磨いたシュートやディフェンスを伝授した。

変化の渦の中、がむしゃらに頑張ったケンタッキー大時代

※質問は薄い文字、スティール氏の解答は濃い太字で表示しています。

 

まずは、ケンタッキー大時代についてお聞きしたいと思います。あなたがケンタッキー大で活躍した時代は、少数民族差別という、今とは違う社会環境だったと聞きます。1966年のNCAAファイナル(全米大学体育協会が毎春開催する全国大会の決勝戦)で、テキサスウエスタン大(現テキサス大エル・パソ校)がケンタッキー大と戦いましたが、テキサスウエスタン大が史上初めてアフリカ系アメリカ人プレイヤー5人を先発に起用し優勝したことが、事件として大きく取り上げられました。あなたはその2シーズン後にケンタッキー大に入学されましたが、当時の文化や雰囲気、アメリカの社会的環境をどう感じていたのか、とても興味があります。

 

私が育ったところは、他の地域から隔離された、学校も小さく人口も少ない、本当に小さな農村のような集落でした。バスケットボールも近所の農家の人々とプレイするくらいで、他の国から来た人々がプレイする姿を見ることはほとんどありませんでした。

インディアナのオールスターチームに選ばれたときに、アフリカ系アメリカ人のプレイヤーと一緒になったこともありましたが、(自分の周囲は)そんな環境だったので、ケンタッキー大に入ったとき、他のチームがアフリカ系アメリカ人のプレイヤーたちを起用して物議をかもしたなど、私は当時の(少数民族差別という)時代背景を認識していませんでした。

小さな田舎町から飛び出してケンタッキー大に入ったばかりの頃は、バスケットボールに夢中で、周囲の出来事にまったく気づいていなかったんでしょうね。

社会の成り立ちや大学の社会的・経済的なあり方、サウスイースタン・カンファレンスの他のチームにいたアフリカ系アメリカ人のプレイヤーたちの問題について、私は認識することなく、ただがむしゃらにバスケットボールに取り組んでいました。皆、同じバスケットボールのプレイヤーなのですから、(取り組む環境が)そう違っていたとは思えませんでしたね。

でも今になって振り返れば、当時は非常に難しい時期だったとわかります。もっと意見を外に発信して、周囲を気にかけて過ごせたら良かったなと思います。しかし認識を持っていなかったために、何もできませんでしたね。

 

ありがとうございます。日本にいては想像もつかない出来事でしたので…。日本人からみれば、アメリカで行われているバスケットボールに変わりないわけですから。でも歴史には、そのことが事件として記されています。

 

(今のような環境になるまでには)時間がかかった、ということですね。

 

あなたはまさにその時代にいらしたので…。

 

あの頃は物事が大きく変わった時代です。私は気づかないままでしたが、今では社会環境が発展を遂げましたね。

バスケットボールのようなスポーツの存在は重要です。スポーツに関わる上では、私たちは皆平等ですから。バスケットボールが好きな人、サッカー、アメフト、ラクロス、テニス、水泳…どれも同じです。特にチームスポーツに関われば、同じスポーツを愛するさまざまな人との出会いがありますよね。お互いに兄弟姉妹のようなものです。

スポーツはコミュニティ作りと相互理解の素晴らしい土台になります。バスケットボールがそうなるには、しばらく時間がかかったということですね。1960年代、70年代は今とは事情が違っていました。ただ、プレイヤーとしての私は、誰もが同じ境遇だと思っていたんですよね。

 

ありがとうございます。ケンタッキー大関連でもう少し聞かせてください。あなたのヘッドコーチ(以下HC)だったアドルフ・ラップさんは、どのような人物だったのでしょう? どのようなことを教わりましたか?

 

一言でいって、ラップHCはプレイヤーとしてついていくのが非常に難しい人でしたね。とても厳しく頑固でした。当時は現代とは時代も文化も違いましたから、今の時代のコーチとしては難しいと思います。プレイヤーがついてこないでしょう。ちょっと厳し過ぎますし、言葉遣いもキツいです。

 

日本でも同じようなところがありますよ(笑)

 

そうでしたか。アメリカでも今は、昔とは異なる状態です。でも私がプレイした1967年から1971年は、とにかくついていくのが難しくて要求の高いコーチがたくさんいました。そのような環境でしたから、一緒に勧誘された仲間たちで最後まで残り、実際に入学したのは私だけです。なぜ私だけ生き残ったかというと、たぶんコーチの要求以上に厳しく自分に向き合ったからだと思います。

ラップHCから学んだのは、速攻を重視するプレイスタイルでしょうね。どうしたら最もその効果が高まるかを学びました。ラップHCの速攻とプレスディフェンスに関する造詣は、中学校、高校時代にも同じスタイルでプレイしてきた私を、プロのレベルに引き上げてくれたと思います。

 

ありがとうございます。次は最近のケンタッキー大についての質問です。最近は“ワン&ダン(優秀な高校生プレイヤーを1年間だけ大学でプレイさせ、すぐにプロに転向させる勧誘システム)”の時代であり、ケンタッキー大はそれこそ“ワン&ダン大学”のようになっています。これについてどう感じていらっしゃいますか?

 

これは難しい問題です。ベースボールは長年、このシステムでやってきています。高校生をドラフトしてマイナーリーグ、ファームチームに送ってメジャーリーガーに育てるわけです。

私はこのシステムに反対ではありません。なぜなら優れた大学生プレイヤーたちは、(NBA入りした後でも)オフシーズンに大学に戻って教育を受けられますから。ただ、それはエリートプレイヤーに限った話で、そうでないプレイヤー群もいます。彼らの中には1年間を終えたら(大学での)教育も受けられなくなり、自分のあり方に疑問を持つようになるケースもあることを忘れてはいけません。そういうプレイヤーには、ワン&ダンは良くありません。突出したプレイヤーには、まあ悪くないシステムだろうと思います。

私はNCAAのあり方に、かなり強い疑問を抱いています。教育に携わる立場のNCAAが、バスケットボールとアメフトで巨額の利益を得ながら、教育に関して費用をかけていないことを、決して良いとは思いません。全体として改革が必要です。

ワン&ダンで入ってくるプレイヤーが問題なのではなく、一見プレイヤーの立場に立っているように見えて、実態がそうではないことが残念なのです。

 

<取材者付記>

スティール氏が大学に進学した当時のアメリカは、アフリカ系の人々をはじめとした少数民族に対する差別が色濃く、公民権運動が盛んな時代でした。会話に出てくる1966年のNCAAトーナメントファイナルは、差別の対象となっていたアフリカ系アメリカ人プレイヤー5人を先発起用したテキサスウエスタン大が、多数派である白人ばかりが所属するケンタッキー大に72-65で勝利を収めています。同大を率いたドン・ハスキンスHCは試合終了後、「私は5人の黒人を起用したわけではありません。最も優秀な5人をコートに送り出したかっただけのことです」と話しました。

現在では至極真っ当な考え方ですが、当時は社会的に極めて重大な事件であり、人種差別の壁を打ち破るマイルストーンの1つとして記憶されています。このシーズンのテキサスウエスタン大は、チーム全体として2007年に、ネイスミス・バスケットボール殿堂入りしています(ハスキンスHC個人はそれより先に、1997年にこのシーズンの王座を含むキャリア全体の功績から殿堂入りを果たしました)。

ケンタッキー州は現在でも人口の85%以上が白人とされ、ケンタッキー大は、スティール氏が入学した当時も全員が白人のロスター構成でした。スティール氏が話してくれたように、そのような環境では、当時の若者たちが差別に関して違和感を覚える機会がなかったのかもしれないと推察できます。

ラップHCのコーチングスタイルが、現代では存在できないとする考えにも、同じような背景が影響しています。日本の身近な体験で言えば、かつては「部活中に水など飲むな」という方針が当たり前であり、コーチの指示を体現できないプレイヤーに対する体罰も横行していました。また、“愛のムチ”と称して、科学的根拠もなしに限界以上までプレイヤーを追い込む練習を、平気で実行する指導者がたくさんいました。

そのような環境の中では、水を飲んではいけないことを不思議に思う以前に、プレイヤーたちは飲まないように頑張ってしまいます。スティール氏は穏やかな表現で当時の指導について話してくれましたが、今ではあってはならないような練習内容も体験されただろうと想像できます。

約50年前の現実が「残酷」だったとしても、当時は当たり前の事象であり、否定する理由もなかったのではないかと思われます。


スティール氏直伝のシューティング!

世田谷区立梅丘中学校でのバスケットボール教室の様子を少しだけ…。スティール氏のシューティングに関する解説シーンを動画でまとめてみました。

スティール氏が講師を務めた世田谷区立梅丘中学校でのバスケットボールクリニック。同校バスケットボール部は染谷 久先生の指導の下、男子が全国ベスト8進出を果たすなど強豪として知られています。
スティール氏が講師を務めた世田谷区立梅丘中学校でのバスケットボールクリニック。同校バスケットボール部は染谷 久先生の指導の下、男子が全国ベスト8進出を果たすなど強豪として知られています。