NBA/ncaa/EUROLEAGUE/海外

NBA初代スティール王、ラリー・スティールが語る

ケンタッキー大の伝統と

NBAの今・昔

1970年代のNBA回想

 

次はあなたが所属したポートランド・トレイルブレイザーズについて教えてください。優勝した1976-77シーズンを振り返って、どのようなシーズンでしたか? ファイナルはどのような感じだったのでしょう?

 

1976年は、ABA(American Basketball Association)とNBA(National Basketball Association)が合併し、ABAの素晴らしいプレイヤーたちが皆、NBAの異なるチームに入ってきた年でした。私に言わせれば、これにより、最強のリーグができあがったのです。私たちのチームにも、モーリス・ルーカスとデビッド・トゥワージックというプレイヤーたちがやってきました。この2人が(ブレイザーズ優勝に)欠かせない存在になったのです。

そして当時ヘッドコーチだったジャック・ラムジーと、以前からチームにいたプレイヤーたちが指導力を発揮して、私たちはシーズン中にどんどん強くなっていきました。史上最高のプレイヤーの1人に数えられるビル・ウォルトンを中心に据え、チームはシーズンが深まるにつれ成熟度を増し、終盤には素晴らしいバスケットボールをするようになっていましたね。私たちはプレイオフに進み、相手を次々倒してファイナルに勝ち上がりました。そこでフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦し、このシリーズに6試合で勝つことができたのです。

我々は、傑出した集団でした。地に足がついた良いチームで、判断力に優れ、ボールもよく回っていました。周辺で変な事件もありませんでしたし、現役を退いて次の道に進んだ後も、それぞれが良い生活をしています。類稀な人材の集まりだったのです。バスケットボールの実力ももちろんありましたしね。

 

ファイナルはどのような感じだったのでしょうか?

 

あの年のファイナルは、ものすごい才能を持つプレイヤーが集まったシクサーズが相手で、誰もがシクサーズに注目していました。

 

世間はシクサーズ有利と見たわけですね。

 

そうです。多くがシクサーズ勝利を予想しました。だから文脈的には、結束したチームが秀でた個の集まりをやっつけた形になりました。

 

しかもあなた方はプレイオフ初進出でしたよね?

 

そのとおり。プレイオフ初進出で、チャンピオンシップを手にすることができました。

 

それもすごいことです!

 

しかもブレイザーズが優勝したのは、現在まであの年だけです。今のブレイザーズも良いチームですが、チャンピオンシップにはまだもうひと頑張りという状態ですね。

 

あなたは素晴らしいディフェンダーでしたが、当時もっとも難しい相手は誰でしたか? “ピストル”ピート・マラヴィッチ(アトランタ・ホークス他で活躍した殿堂入りガード)もいましたよね。そのような相手はたくさんいたかもしれませんが、何人か挙げていただけませんか?

 

“ピストル”ピートは確かにガードするのが難しい相手でしたね。ルイジアナ州大出身で、年齢は私の1つ上なので、大学時代もプロ入り後もマッチアップすることがありました。

ただ、196㎝と長身だった私には、ディフェンダーとして、相手チームのセンター以外、最高のオフェンス力を備えたすべてのプレイヤーと、マッチアップする機会がありました。自分より大きなパワーフォワードも、スモールフォワードも、オフガード(2番手のガード)も、すばしっこいポイントガードもです。

私にとって最も手強いのは小柄なポイントガードだったので、その観点で言えば、ネイト・アーチボールド(ケンタッキー大関連の話題で登場したテキサス大エル・パソ校出身で、現在サクラメントを本拠とするキングスの前身、シンシナティ・キングスやボストン・セルティックス他で活躍した殿堂入りガード)が一番難しかったですね。「史上最高の50人のプレイヤー」にも選ばれているプレイヤーです。左利きで、ものすごくすばしっこく、私のサイズではついていくのが難しかったですよ(笑)

ただ、彼だけではありません。厳しい相手はあと50人くらいはいました。すごいプレイヤーばかりでしたからね!

 

世田谷区立梅丘中学校でのクリニックで、シューティングの手ほどきをするスティール氏(左は通訳のマルフォートラ マイケル氏)
世田谷区立梅丘中学校でのクリニックで、シューティングの手ほどきをするスティール氏(左は通訳のマルフォートラ マイケル氏)
大森スポーツセンター(東京都大田区)で行われたDreams Come True Project主催のバスケットボール教室でスティール氏。子どもたちの記念写真やサインの要望にも快く応えてくれていました。
大森スポーツセンター(東京都大田区)で行われたDreams Come True Project主催のバスケットボール教室でスティール氏。子どもたちの記念写真やサインの要望にも快く応えてくれていました。

<取材者補足>

スティール氏が在籍し、NBAのチャンピオンシップを獲得した1976-77シーズンは、1970年に誕生したブレイザーズにとってまだ7シーズン目。プレイオフ進出も初めてだった彼らの上位進出は困難と思われましたが、ファーストラウンドでシカゴ・ブルズを4勝1敗で破ると、カンファレンス・セミファイナルではデンバー・ナゲッツを4勝2敗で、カンファレンス・ファイナルではロサンジェルス・レイカーズを4勝0敗で下す快進撃を見せNBAファイナルに進出しました。

決戦の舞台で対戦したシクサーズには、マイケル・ジョーダンよりも前に、フリースローラインからのダンクを成功させたジュリアス・アーヴィングや、バックボードを破壊するほどのパワフルなダンクで知られたダリル・ドーキンスら、スターがそろっていました。しかし、1974年にドラフト全体1位で獲得したビル・ウォルトンを核に、スティール氏をはじめとする有能なプレイヤーが一体となったブレイザーズが、前評判を覆して王座を獲得しました。

「ガードするのが難しいプレイヤー」の話題で登場した“ピストル”ピート・マラヴィッチは、スティール氏が王座に就いた1976-77シーズンの得点王。また、ネイト・アーチボールドは、1972-73シーズンに得点王とアシスト王を同時に手にしたプレイヤーであり、1980-81シーズンではセルティックスの一員としてリーグ制覇を果たしています。この2人をはじめ、強烈なオフェンス能力を持つプレイヤーと対峙し、NBAの初代スティール王を獲得したスティール氏の足跡は、日本のファンにももっと認識されるべきでしょう。

 

関連リンク

 

スティール氏による1977NBAファイナル回想(ブレイザーズ公式YouTube)