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NBA All-Star Weekend 2019 in Charlotte Special Story

シャーロットで会いましょう

Original title by the arthor: Why All Star Weekend is So Special to Me

Written by Michael Steenstra, Introduction & Translation by Takeshi Shibata

アーノーへの思いを胸に取材に向かった2017年のオールスターで、ヘラルド(右)と筆者(左)はケニオン・マーティンへの取材も行った(photo courtesy of Gerardo Lopez)
アーノーへの思いを胸に取材に向かった2017年のオールスターで、ヘラルド(右)と筆者(左)はケニオン・マーティンへの取材も行った(photo courtesy of Gerardo Lopez)

NBAオールスター・ウイークエンドを愛したアーノー

そんなアーノーに誘われ、私は、2015年にニューヨークで開催されたNBAオールスター・ウイークエンド行きを決めた。

彼は開催の何ヵ月も前からウキウキしていた(私もそれを見てうれしくなった)。そして、マディソン・スクエア・ガーデンの向かいにあるホテル・ペンシルヴァニア(綺麗とは言えない)で同じ部屋を借り、その週末を過ごすことになったのだが、それはまるで竜巻の中にいるようなあわただしい体験だった。考え付く取材はほとんどすべてやった。NBA関連のイベントすべて――オールスターたちへのインタビュー・セッションやジョーダン・ナイキ、アンダーアーマー、アディダスなどが展開するポップアップショップ訪問など――に参加し、ニューヨークの街からあらゆるものを吸収しようとした。彼の言ったとおり、素晴らしい週末になった。

あの週末についてのパラパラとした思い出が、今も私の胸に焼きついている。日曜日のオールスターゲームが終わった後のこともそのひとつだ。マンハッタンにあるホテルの小さく埃っぽい一室に戻った私たちは、マクドナルドで仕入れてきた夜食にありついた。アーノーはどでかいビッグマックのセットに20個入りのマクナゲットだ。ラフな室内着で私と反対側のベッドに座った彼は、考えられないようなスピードでそれをガツガツと食べていく。その間、彼はまるで呼吸していないかと思うような食べ方だった。

でも、それは必然だったのかもしれない。アーノーは31年間の生涯をものすごいスピードで、一生懸命に生きたのだから。彼はどんなことをするときにも、それが初めてのような喜びを感じ、かつ最後かもしれないと思って取り組んでいたと思う。人生、そうありたいものだ。

アーノーにとって最後となった、翌2016年のNBAオールスター・ウイークエンド(カナダ、トロントでの開催)には、私は行くことができなかった。現地の写真を見ながらうらやむばかりだったが、アーノーが楽しんでいることは、それを見れば伝わってきた。そして、彼が私の気持ちを思ってトロントみやげも持ち帰ってくれたのを知り、シャーロットで開催されると発表されていたその翌年のNBAオールスター・ウイークエンド(その後開催地がニューオリンズに変更となり、シャーロット開催は今年に移行された)には、絶対に行くと心に決めたのだった。

 

悲しみの知らせ

しかし、予期せぬことが起こってしまった。

アーノーは時折、夜中に痙攣に襲われることがあった。その後起きたことを思えば、それは重篤な状況だったのだろう。しかし、仲間うちの集まりで「夜中によく痙攣して舌を噛み、血まみれで目が覚めるんだ」とは話したものの、彼はその噛み痕を我々に見せて笑い飛ばしていたくらいだった。

プエルトリコのメディアで働くヘラルド・ロペスは、私の家の近くにある睡眠障害センターで検査してもらったほうが良い、とアーノーの背中を押した。あれは私が初めて、自分の女房を彼に紹介したときだった。彼とのつきあいも長くなっていたので、私はよく女房に彼の話をしていたのだ。私たちは一緒に食事をして大いに笑った。フランス語なまりの口調で、テレビの人気コメディードラマ『The Office(アメリカ版)』の話をするアーノーは本当に面白かった。彼のユーモアはあのシリーズからきているのかもしれない。

あのあと、彼とほとんど会うことなく別れなければならないなどとは思わなかった。ただ、奇遇にも彼が亡くなる3週間ほど前に、私たちは一緒にポッドキャストを録音していた。あれは私たちが、ワシントンD.C.のビール醸造所見学ツアーに出かけたときのことで、その中で私はロスコー・ワラン(オーストラリア出身の記者仲間)と共に、アーノーに次々と質問を投げかけた。親密な雰囲気の会話を聞いていただければ、アーノーの人となりが感じられ、彼が各国から集まった記者仲間たちとどんな関係にあったかをわかってもらえると思う。

その後、彼が亡くなる5日前にも、私は“ハッピーアワー”でもう一度彼に会うことができた。この時は、彼が記者の立場とは別に生業としていた「The American Health Lawyers Association(アメリカの健康産業会で働く法曹の連合会的団体)の同僚たちが一緒だった。最初は居場所に困るような感覚だったが、アーノーは到着したとたんに、私をその場になじませてくれた。初めてのウィザーズ戦取材、またニューヨークでのNBAオールスター・ウイークエンドのときと同じように、私を助けてくれた。あのときの彼の笑顔や笑い声が、今でも忘れられない。